想い出の附属小学校 −懐かしいあの頃をもう一度−
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 ■ 懐かし岡山(意外と知られていない?)3

 ■ 「鬼ノ城」(きのじょう)と「温羅」(うら)の不思議













上写真は復元された西門
 岡山県総社市に「鬼ノ城」と呼ばれる古代の城跡があります。

 中央から派遣された
吉備津彦命と壮絶な戦を繰り広げ、
今はその首が
「吉備津神社」のお釜殿の下に埋められていると
言い伝えられ、いまだに鳴釜神事を通して現代の我々にも語り
掛けてくる
「温羅(うら)」と呼ばれた古代首領の居城です。

 「鬼ノ城」と聞くと、残虐で凶暴な「鬼」が住んでいたというイメージがあると思いますが、鬼であるはずの「温羅(うら)」は岡山の夏の風物詩である「うらじゃおどり」として若い人達を引きつけ親しまれています。どうして「鬼」が人達に「親しまれる」のでしょうか。
 そこで、この「鬼ノ城」と「温羅」の不思議について少し調べてみました。

 「鬼ノ城」は、最近は古代の城壁や城門が復元されつつあり、またハイキングコースとしても絶好の場所なので、多くの方が訪れています。 
 さて右の地図はその「鬼ノ城」の地図で、クリックすると
別画面で拡大しますので、別画面で表示したまま以下の文章を
読んで頂ければと思います。

 「鬼ノ城」の地図を見たり、現地に行ってみると次のような
ことが分かります。

●等高線の密度を見ると、自然の地形としては出来過ぎなくらい城の周囲が急峻で、お城の中央部は比較的平坦となっていて、理想的なお城の地形となっている。
 実際に現地を歩いてみると「とても東北、東、南方面からは、この城を攻めることが出来ない!」と感じられます。


●中央辺りに「礎石建物」と書かれているが、この辺りに城の中心となる大きな建物群があったらしい。

●お城の周囲は2.8キロくらいあり、城内には池や川もあるので、城内に水田を作り稲作をしようと思えば出来たと思われる。

●これだけの巨大な城を、中央から派遣された
吉備津彦命が攻め落とすには、壮絶な戦が繰り広げられたのではないかと想像される。なぜなら、地形が守りに理想的なばかりでなく、城内には水も食料も膨大な量が備蓄できるため。

「吉備津神社」「矢食の宮」「鯉喰神社」「血吸川」「首部」「お釜殿」等々、伝承に見える地名や神社がそのまま今日まで残っている。しかしながら、日本書紀などの我が国の正史には全く記録がない。

●「鬼の城」の南東約10キロメートルの地(吉備中山)
「吉備津神社」があり、「鬼の城」と対峙するように北向きであり、吉備津彦の命が温羅と対戦するために陣取った場所ではないかと想像される。
 なお、吉備津神社のホームページは次のとおりです。http://kibitujinja.com/

●勝者である吉備津彦命から言えば、温羅は「鬼」であり、その城は「鬼の城」であろうが、温羅から吉備津神社のある吉備中山を見ると「鬼が島」と見えたかも知れない。
 今でも吉備中山の北側は、水攻めの備中高松城跡で知られるとおり比較的浸水しやすい所であり、もしかしたら当時の吉備中山は満潮時などには「島」であったかも知れない・・・・・等々考えると「鬼の城」は非常に興味深い所です。

 鬼ノ城関係のリンクを掲げておきます。
 ■ 総社市の観光情報
   http://www.city.soja.okayama.jp/kanko/kankochi/kinojo.jsp
 ■ 鬼ノ城ウォーキング
   
http://park.geocities.jp/aenzic/
   鬼ノ城に関する写真などが非常に沢山掲示されています。

 ■ 鬼ノ城に関する学説 

 鬼ノ城に設置されており鬼ノ城に関する様々な資料等を展示している
「鬼ノ城ビジターセンター」
内の掲示によると、鬼ノ城は「古代山城」
のうち
「神籠石系(こうごいしけい)山城」に属しているが、その築城
年代等については諸説があり確定していないようです。
 つまり、「鬼ノ城」については記紀等の歴史書に記録がないため、
いつ頃、誰が、何のために築いたのか今だもって不明
なのです。


 ●古代山城──┬──朝鮮式山城(朝鮮半島の白村江の海戦(663年)
        │    で大敗した我が国は、国土防衛のために、
        │    665年頃から世紀百済の亡命貴族の指導を受け山城を築いた。
        │    これら日本書紀等に記録が見られる諸城を朝鮮式山城という。)
        └──
神籠石系山城(上記朝鮮式山城に対し、文献に記録のない古代山城。
            
神籠石系山城の築城時期については、次のとおり諸説がある。)
 ●神籠石系山城の築城時期

  ・先行説   朝鮮式山城に先行して、5〜6世紀頃築城されたとする説。
  ・同時期説  朝鮮式山城と同時期である7世紀後半頃に築城されたとする説。
  ・後出説   朝鮮式山城の築城に遅れて、8世紀以降に築城されたとする説。


 ■ 桃太郎伝説と温羅(うら)伝説

 岡山の「桃太郎伝説」は、岡山市の「吉備津神社」
総社市の「鬼の城」に伝わる
「温羅(うら)伝説」が原型
だと言われていますので、この「温羅伝説」をご紹介します。

 伝説ですから色々な異説がありますが、これを総合した
藤井駿氏『吉備津神社』(岡山文庫52)から引用します。

 右の地図はどちらも、現代にそのまま残る温羅伝説の地名を
示したものです。
 クリックすると別画面で表示しますので、地図を見ながら
文章を読んで頂ければと思います。

 
●なお、緑色文字の部分が『吉備津神社』(岡山文庫52)から引用した部分です。
 ●青色文字の部分は編集人(田渕)のコメントです。
 
●また、茶色文字の部分は、現代にそのまま残る神社の名称や地名等です。

(引用開始)
 人皇第十一代垂仁(すいにん)天皇(ある本には崇神(すじん)天皇(第十代天皇)とする)の御代、異国の鬼神が飛行して吉備国にやってきた。彼は百済(くだら)の王子で名を温羅(うら)ともいい吉備冠者(きびのかじゃ)とも呼ばれた。
 彼の両眼は爛々(らんらん)として虎狼(ころう)のごとく、蓬々(ほうほう)たる鬚髪(しゅはつ)は赤きこと燃えるがごとく、身長は一丈四尺にも及ぶ。りょ力は絶倫、性は剽悍(ひょうかん)で凶悪であった。

 彼はやがて備中国の
新山(にいやま)に居城を構え、さらにその傍の岩屋山(いわややま)に楯(城のこと)を構えた。そして西国から都へ送る貢船をのせた船や、婦女子をしばしば掠奪(りゃくだつ)したので、人民は恐れおののいて彼の居城を「鬼の城(きのじょう)」と呼び、都に行ってその暴状を天皇に訴えた。
 
 朝廷はたいへんこれを憂い、武将を遣わしてこれを討たせたが、彼は兵を用いること頗(すこぶ)る巧で、出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した。
 そこで、つぎは武勇の聞え高い皇子の五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)(大吉備津彦命)が派遣されることとなった。
  
 (コメント)五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)は孝霊天皇(第7代天皇)の皇子と言われて
   います。上写真は岩屋の「鬼の差し上げ岩」


 ミコトは大軍を率いて吉備国に下り、まず
吉備の中山(きびのなかやま)(この中山の東西の麓に備前と備中の吉備津宮が鎮座している)に陣を布き、西は片岡山という所に石楯(いしたて)を築いて、防戦の準備をしたのである。現在の都窪郡庄村西山(現在は倉敷市のうち)にある楯築(たてつき)神社はその遺跡である(当社はもともと吉備津神社の末社であった。巨石がサークルをなして残っており、古代祭祀のあととして近来考古学者の注目をひいている。)
  (コメント)楯築遺跡については、次のホームページに多くの写真が掲載されています。
   http://www.sairosha.com/tabi/nazo/tatetuki.htm

 さて、ミコトはいよいよ温羅(うら)と戦うこととなったが、もとより変幻自在の鬼神のことであるから、戦うこと雷霆(らいてい)のごとく、その勢いはすさまじく、さすがのミコトも攻めあぐまれたのである。

 殊に不思議なことは、ミコトが射かけた矢はいつも鬼神の矢と空中で噛み合うていずれも海中に落ちた。今も吉備郡生石村(おおいしむら)(現、岡山市田中)の
矢喰宮(やぐいのみや)(矢喰天神ともいう。)はその弓矢を祀っている。(同神社の入口にある巨石は、その弓矢の変化したものという。)
  
 (コメント)吉備津彦命軍と温羅軍の間で、何度も激しい戦闘が行われたけれども、なかなか雌雄を
   決するまでには至らなかったという喩えではないでしょうか。
    そして
「矢喰宮」はその激しい戦闘が行われた戦場に建てられた鎮魂の社ではないでしょうか。
    「矢喰宮」については、次に多くの写真が掲載されています。
    http://tonko.butanishinju.com/070801.htm

 ミコトはそこで神力を現わし、千釣(せんきん)の強弓を以って一時に二矢を発射した。これは全く鬼神の不意をつき、一矢は前のごとく噛み合うて海に入ったが、のこりの一矢は狙い違わず見事に温羅(うら)の左眼に当たり、血潮は混々として流水のごとく迸(ほとばし)った。
  
(コメント)吉備津彦命は、一時に2方向から軍を差し向かわせ、一方の軍は互いに大損害を被ったが
   もう一方の軍は温羅軍に大損害を与えたと言う譬喩ではないでしょうか。


 
血吸川(ちすいがわ)(今も総社市阿曽から流れ足守川にそそいでいる)はその遺跡である。
  
 (コメント)血吸川は現在も「鬼の城」のすぐ東を流れていますが、この川の周辺で川面をも染める
   程の激しい戦闘があったということではないでしょうか。

 さすがの温羅(うら)もミコトの一矢に辟易(へきえき)し、たちまち雉(きじ)と化して山中に隠れたが、機敏なるミコトは鷹(たか)となってこれを追っかけたので、温羅はまた鯉(こい)と化して血吸川に入って跡を晦(くら)ました。
  
 (コメント)形勢が不利となった温羅は、一旦は(西方の岩屋等がある)山中に隠れたが、
   吉備津彦命に西方から追われて、血吸川沿いに(東南方向に)逃走したという意味でしょうか。

 ミコトはたちまち鵜(う)となってこれを噛み揚げた。いまそこに鯉喰神社(こいくいじんじゃ)(都窪郡庄村大字矢部=現在は倉敷市矢部の氏神)があるのはその由縁である。
  
 (コメント)鯉喰神社のある辺りで大きな戦闘があり、
   その結果吉備津彦命が、温羅を捕らえたと言うことで
   しょうか。左は鯉喰神社。

 温羅はもはや絶体絶命、ついにミコトの軍門に降って、おのれの「吉備冠者」の名をミコトに献ったので、それからミコトは
吉備津彦命と改称されることとなった、という。

 ミコトは鬼の頭(こうべ)を刎(は)ねて串し刺してこれを曝(さら)した。備前の
首村(こうべむら)(御津郡一宮町首、現在は岡山市平津)はその遺跡である。

 ところが不思議なことに、この首は何年たっても大声を発して唸(うな)り響いて止まらない。
 ミコトは部下の犬飼武(いぬかいのたける)に命じて犬に喰わさせた。それでも、肉は尽きて髑髏(どくろ)となったが、温羅(うら)の首はなお吠え止まない。
 ミコトはその首を
吉備津宮の釜殿の竈(かま)の下八尺を掘って埋めたが、なお、十三年間、うなりは止まず、近郷に鳴り響いた。
  
(コメント)「唸りが止まない」とは、「温羅の残党等の抵抗が続いて止まなかった」と言うことの
   喩えでしょうか。


 ある夜、ミコトの夢に温羅(うら)の霊が現われて、「吾が妻、
阿曽(あそ)郷の祝(はふり)の娘阿曽媛(あそひめ)をしてミコトの釜殿の神饌(みけ)を炊(かし)がしめよ、もし世の中に事あれば竈の前に参り給はば幸あれば裕(ゆた)かに鳴り、禍(わざわい)あれば荒(あら)らかに鳴ろう。ミコトは世を捨ててのちは霊神と現われ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」と告げた。
   
(コメント)今でも吉備津神社のお釜殿で「鳴る釜の神事」が行われていることはご存じの方が
   多いと思います。次は、吉備津神社のホームページから「鳴釜神事」のページです。
   http://kibitujinja.com/narukamashinji.html

 
というわけで、吉備津神社の御釜殿は、温羅の霊を祀(まつ)るもの、その精霊を「丑寅(うしとら)みさき」というのである。これが神秘な釜鳴神事のおこりである。
  (コメント)温羅の精霊は「丑寅(うしとら)みさき」として吉備津神社の釜殿に祀られています。
   また本殿(正宮)の艮(うしとら)の隅に丑寅明神として祀られています。

(引用終わり)


 なお、上の「温羅伝説」は、日本の正史と言える日本書紀や古事記には全く記述がありません。
 正史でない伝説・伝承に出てくる地名などが、そのまま現代の神社名や地名として残っているのは、少し不思議ですね。

 ■ 備前、備中、備後の一宮は「吉備津(彦)神社」

  
吉備三国(備前、備中、備後)それぞれの一宮(最も格式が高いとされる神社)をまとめてみました。
    ・備前一宮は、
吉備津彦神社(岡山市北区一宮)、石上布都魂神社(赤磐市石上字風呂谷)
    ・備中一宮は、
吉備津神社 (岡山市北区吉備津)
    ・備後一宮は、
吉備津神社 (福山市新市町宮内)、素盞嗚神社(福山市新市町大字戸手天王)

  上のように、「吉備の国」である備前、備中、備後を通して一宮は
「吉備津(彦)神社」です。
  吉備津神社も吉備津彦神社もどちらも吉備津彦命をお祀りした神社ですから、
 「吉備の国」
とは「吉備津彦命の国」であるということが良く分かると思います。

  また、備前一宮の「吉備津彦神社」と、備中一宮の「吉備津神社」は近くにあります
 (直線距離で約1.5キロメートル)が、この間に「備前国と備中国の境」がある訳です。


     このページの背景は吉備津神社の回廊です。
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